ヨハネスブルグへの旅

 記憶、それは額縁に入った絵のようでもあり、空に浮かぶ白い雲のようでもある。 

他から離れ、一つだけ離れて浮いている記憶がある。 それは、アフリカ大陸の南端にある、南ア連邦のヨハネスブルグとダーバンへの旅である。 いつのことやら、時期は

はっきり覚えていないが、36~37年前のことだろう。 今は、香港とか中国とか、ワンストップでヨハネスブルグに行けるようだ。 しかし、当時は香港~セイシェル

経由とか、香港~スリランカ経由だった。 真夜中の空港で、店も閉まって、照明も落とし、何も面白いものが無いロビーで2時間待たされた。 日本からはまず香港へ飛び、国営の南ア航空機SALに乗り換えだったと思う。 

 ヨハネスの街中を車で走って、異様なものを見た。 それは、町の真ん中にピラミッドのように、黒い土の山があったことである。 五木寛之の「青春の門」にでてきたボタ山を連想した。 南ア連邦は世界の金の産出量の半分を占めていたようだ。 鉱山から掘り出した鉱石と土から金を取り出したあとの残土は地表に積み上げるしかなかった。 しかし、この残土にはまだ金が残っており、精錬技術が進歩すれば、まだ金が取れるとのこと。 

 サファリに簡単に行けるが、どうすると聞かれたが、観光に行ったわけではないし、

正直、怖くて遠慮申し上げた。

 そのかわり、時期は2月で日本は冬だが、当地は夏であり、ゴルフに連れて行ってもらった。

 支店長の社宅は白塀に囲まれた大邸宅でびっくり。 黒人夫婦が別棟に住み込んでおり、社用車の運転、掃除、洗濯は彼等まかせ。 支店長夫人の仕事は家族の料理と一人娘の世話だけ。 

 南ア連邦の人口は1割弱が白人、8割は黒人。 黒人は決められた区域に住み、町での仕事にはバスで通勤する。 白人、亜細亜人などの住居に召使で住み込むのはOK。

国策として、黒人は保護されており、白人が黒人に婦女暴行の罪を犯すと重罪。

アパルトヘイトの影やいずこに、という雰囲気であった。

 新規商売のネタを探しに行ったのだが、石油は出ないし、大した産業も無い。 株式市場の上場企業も各産業に1社しかなかった。 にもかかわらず、歴史的に欧州、米国企業の進出はあり、後発で商機を見付けるのは不可能だった。

 2週間滞在したが、終末に家族孝行をかねて、ケープタウンにも近い、ダーバンという港町にこれは支店長の運転する車で行った。 美しい港町で、新婚旅行のメッカらしかった。 

 商売のほうは、日本から数名駐在員を出していたが、現地人で出入りしていた中国系のエージェントがいた。 若いが熱心で、毎日客先に案内してくれた。 何も成果は上がらなかったが、日本から来たというので、親切にしてくれた。 帰国前に現地の人妻とおぼしき女性3人をモーテルに呼び、支店長を交えてパーティーをもうけてくれた。

ところが、ところ変われば品変わるで、酒も食事も無しのそのものズバリのパーティーなのである。 明るい午後の日差しが差し込む部屋に3組の男女で「昼下がりの情事」となり、ヨハネスでは日常なのかも知れないが、参りました。

 後年、この中国系南ア人が友達と日本に観光に来た。 南アには火山は無いし、温泉も無いので、熱海に泊まり、水中翼船で大島に行き、三原山の火口を見せてやった。

お返しは日本の良い所を見せてやった訳である。 あとは、勝手に都内と関西を見て

帰ったはずだが、まったく音沙汰がない。 それも南ア流なのであろう。