ふるさと Part II

 先日、「ふるさと」というタイトルで「はてなブログ」に短文をのせました。 

 趣旨は、筆者には「ふるさと」という郷土が無く、それが悲しいというものでした。

 書いた時の心の底に流れていた気持ちは、地方から都会に出て来て、時に、故郷を思いだし、懐かしがっている人に対する羨望です。

 ところが、今朝、目が覚めたら、蜃気楼のように、幼少時に住み、遊んでいた、町の風景が、まざまざと脳裏に浮かんで、消えようとしないのです。 まるで「ふるさと」が無いと云われたのを恨んで出て来た亡霊のようです。

 そこで、改めて「ふるさと Part II」として、色も音も無い下手な風景画のようですが、精一杯描いて記録として残してあげたいと思います。

 時代は遥か70年以上昔のことです。 筆者が国民学校(今の小学校)にあがる前の頃です。

 チンチン電車と呼ばれた市電(路面電車)が走っており、バスはあったかどうか記憶に無いが、まだマイナーな乗り物だったでしょう。 後に市電は都電と名が変わり、更に、線路が無くなり、トロリーバスに変わります。 その後、全面的に都バスに取って代わられます。

 JR(旧国鉄)山手線の一番近い駅が浜松町駅田町駅で、徒歩で30分位の距離があり、筆者の自宅周辺は「陸の孤島」と呼ばれていました。

 住所ですが、当時は東京市麻布区、後に東京都港区麻布と変わります。 今は東京都港区東麻布となりました。

 「古川」という水路があり、橋が沢山ありました。 渋谷から天現寺橋、四の橋、三の橋、古川橋、二の橋、一の橋、中の橋、赤羽橋、芝園橋、金杉橋で芝浦港に注ぎます。 今は、その水路の頭上に首都高速道路が走っています。

 地形的には、この古川の流域が一番低く海抜は殆どゼロメートル。 左は三田台地、右が飯倉、六本木、と進み、左に回って材木町、と台地が取り囲みます。 だから、坂が多いのですが、筆者は永坂、鳥居坂暗闇坂、仙台坂くらいしか知らず、この機会にネットで調べたら、26もの坂の名前が載っていました。

 大黒坂、一本松坂、狸坂、暗闇坂、七面坂、植木坂、鼠坂、仙台坂、鳥居坂芋洗坂、狸穴坂、新富士見坂、永坂、なだれ坂、うどん坂、青木坂、木下坂、新坂、奴坂、薬園坂、綱坂、綱の手引坂、日向坂、神明坂、蛇坂、南部坂。

 大使館が多く、例外は米国大使館が赤阪、英国大使館が千代田区一番町、それ以外はほとんど麻布にあったと思います。 筆者の自宅はロシア大使館の崖下に近い所でした。

 近くには、まだ街路樹がありました。 幹の皮が緑色と白色だったから、プラタナスだったのでしょう。 良く木登りをして遊びました。 戦後の区画整理で道路が広くなったり、新しい道路が出来るとともに、街路樹は無くなりました。

 麻布の中心は何と言っても「麻布十番」です。 「稲荷神社」の酉の日の「おとりさま」の縁日には露店が並び、大変な賑わいで、子供も大人も楽しみました。 

 十番通りの丁度真ん中辺りから、二の橋方向に細い横丁が伸びて、突き当りには麻布山善福寺という有名なお寺があります。 この横丁の名前は「雑色(ぞうしき)通り」と言い、芸者のいる三業街があり、寄席もありました。

 一の橋と芝公園の橋の袂に映画館があり、親や友だちと良く観に行きました。

 浜松町駅に向かうと増上寺という徳川家の菩提寺があり、周りには芝公園、弁天池があり、芝公園には貝塚もありました。 この辺りも子供たちの絶好の遊び場でした。

 その後、東京名物の「東京タワー」が出来ましたが、交通が不便な地域なので、発展が進まない感じでしたが、「大江戸線」「南北線」の二本の地下鉄が通り、これからは徐々に再開発が進み、「グレーター麻布十番」になると思われます。 第二、第三の六本木ヒルズも出来るでしょう。

 大昔の麻布は間違いなく筆者の「ふるさと」であり、こんな素晴らしい町で育ったことは自慢してもよいのかも知れません。