ふるさと

「ふるさとはどちらですか」と訊かれて、はっきり答えられる人と答えられない人がいると思う。

 最近、大昔に読んだ超長編小説を再読した。 主人公が何かにつけて生れ育った土地を懐かしく想いだす場面がある。 その場面では羨ましい思いを禁じえない。 然し、

彼は故郷を捨てて東京に出る。 それは、人生の目的を探すには東京に出るしかないと

思い決めたからである。 関わった事件に流されて北海道に渡り、更に、ロシアに行くことになる。 彼が何処で最後を迎えるのかは分からない。 然し、彼の遺骨と魂は必ず故郷に戻ると思う。

 私の場合、これまでの人生の半分以上を生活していた東京を「ふるさと」と言うしかない。 然し、東京は「ふるさと」のイメージにはそぐはない。 排気ガスの多い都会から緑の多い土地に転居するのが私の夢であり、更に、天災の多い日本から米国東部に移住したいと考えていたこともあり、東京が「ふるさと」と言うことには抵抗がある。

 然し、東京が嫌いになったのは前回の東京オリンピック首都高速道路が出来てからだと気が付いた。

 私の先祖の墓は神奈川県と千葉県にある。 実の両親の墓は神奈川県横須賀市にある。 養子に入った家の養父母の墓は千葉県香取市にある。 私と家族は千葉県の墓に入ることになる。 私は東京都心から米国に渡り、長期滞在して帰国し、飽きるほど伊豆半島の温泉場に住み、ようやく、いわゆる、終の棲家として、東京でも西の端の立川市に腰を落ちつけた。 然し、想いを断ち切れないほどの故郷が無いのは淋しい。

ゴルフボールへの思い(5)

                 (十番ホール)

 8年という長いニューヨーク駐在を終えて帰国。 徹マン、徹夜ボーリング、夜遊び、などなど、身体に悪いことをやって四十肩になり、幸い治って帰れて良かった。

しかし、老眼になって、商社の営業マンは難しく、思い切って退社。 受験、受験の25年、次の25年のうち10年がニューヨーク駐在、その後の人生を考えて、温泉別荘地に家を建てて、ウオーキング、ゴルフ、朝に晩に、サウナと温泉入浴という、リハビリ生活に入った。 沼津GC, 南箱根GCなどの会員になり、別荘地の中にゴルフ同好会をつくり、週に2回はコースに出るという、ゴルフ狂のゴルフ漬人生を始めた。

別荘地は1000区画のうち200区画位に家屋があり、そのうち100戸くらいが定住だったが、当然、住民の平均年齢は65才くらいだった。 だから、50台の私はゴルフ同好会の常任幹事で、コースの予約、組み合わせ、ハンデの決定、賞品の手配、プリントの配布、会費の徴収・管理、すべて進んでやらせて頂いた。 平日ゴルフは楽しいです。 みんな仕事をしているのに、こんなにしあわせで良いのかと運命に感謝。

               (十一番ホール)

 太平洋マスターズも2年連続で御殿場に見物に行った。 ジャンボ尾崎の雄姿を見るために。 左ドッグのミドルホールで左側の林越え、ワンオン~イーグルが見たかったが駄目だった。 別荘地の知人が会員だった、ほかの御殿場のゴルフ場に連れて行って貰った。 突然、空が暗くなって雷が鳴りだし、プレー中断、コースアウトの放送があり、クラブハウスに戻る途中、持っていた傘の柄に被雷し、手にビリビリっと来て、傘を放り出した。 休憩後プレー続行出来たが。

               (十二番ホール)

 無職でも良かったが、まだ若いし、やるならゴルフに関係した仕事をしたいと思っていた。 ドライビング・レンジを作るか、買い取って経営したいと考えたが、資金が相当かかるだろうし、簡単にはいかない。 レッスンプロも力不足。 そこで、コースで働くことを考えていたら、支配人の口が2件もきたが、これも失敗。 あっという間に6年が過ぎ、さすがに別荘地暮らしに飽きが来た。 そして、ついに<ギブアップ>したのである。

                                    (完)

 

 

ゴルフボールへの思い(4)

                (七番ホール)
 次の月はハンデが9だから上位入賞は無理とは思ったが、スコアは80割れを狙っていた。 ところが、突然、左肩に痛みが走り、ウッドが振れず、3番アイアンで超スローなスイングでテイーショット、ロングホールは3番アイアン、3番アイアン、9番アイアンと繋いで、3オンのバーディー・チャンス。 バーディー フィニッシュ。 そんなゴルフで何とか90越えで廻れた。
                (八番ホール)
 痛みは左肩から右肩に移り、タイプを打っても、ペンを持っても、腱鞘炎で肘から先が痛み、更に、上着を着るときは右肩の付け根の内側が痛くて、腕が上がらない。 痛みが首筋、背中と右半身全体に広がり、訳が分からず、日本人の医者に駆け込んだが、内科医であり、とりあえず、痛みを取ろうと、首から血を抜いた。 痺れて痛みは一時的に消えたが、帰宅したらまた再発。 アメリカ人の同僚がカイロプラクター(骨矯正療法士)に連れて行ってくれた。 いくらかは収まったが、痛みは消えなかった。
 ニューヨークに日本語放送のテレビ・チャンネルがあり、中国系のアメリカ人鍼灸師のコマーシャルが流れた。 藁にも縋る思いで訪ねたら、京都で鍼をならったとかで、日本語も流暢で、奥さんや可愛い女の子二人も日本語を使っていた。(奥さんは日本人か) 痛いのではないかとか、本当に治るのかと、不安と疑問で一杯だったが、先生の説明を聞いて、取り敢えず治療に専念することに。 毎週、土曜日に通い、半年したころ、二の腕の付け根の痛みはまだ取れない。 ところが、数日後、突然、腕が軽くなって、痛みも無く、ケロッと治ってしまった。 先生から、半年から長いと2年かかると聞いていたが、最短で治ったのである。 治療は頭のてっぺんから、足の小指まで、身体の裏と表と全身に鍼をたてることを繰り返した。 せんせいも一生懸命に治療をしてくれた。 アメリカの大学から博士号を出すから論文を提出してはどうかと誘われ、鍼灸胃潰瘍に対する効果を書いていると言っていた。 奇跡的な回復も有難かったが、費用も会社が保険で全額負担してくれた。
                 (九番ホール)
 右肩の痛みは「四十肩」という病気と教えられた。 100%完治はしないが90%は直っている筈で、再発はしないと教わった。 ボーリングのボールは持てなかったが、ゴルフは左腕が主軸で右腕は補助だから、何とか再開出来た。 しかし、発病前の様な訳はなく、ゴルフボールへの思いは空の彼方へ飛んで行った。(お客さん、OBですよ!)

ゴルフボールへの思い(3)

                                                        (六番ホール)

 六年後、ニューヨークに二度目の駐在となった。 年齢も36才と男としても成熟期を迎えた。 スコアが90に近付き、アマチュアとしては、最大の壁にぶつかる。 90というのは、ボギー ペースとも言い、アマチュアのパープレイと言える。 1ラウンド、18ホールで、ダブル・ボギーを2~3個に抑え、パーを4~5個取れば、90を割ることもある。バーディーが1~2個取れたら、ロウ・エイテイ、つまり、85を割ることもある。 この辺にくると、80を切れるのではないかという欲が出てくる。

 余談だが、私たちが頻繁にプレーしていたコースで女子プロの樋口プロが参加したトーナメントの試合があり、2年連続で見物に行った。 記憶に残るプレーヤーは小柄で距離は出ないが、ローラ・ボーという超可愛い美人プロである。 成績は大したことはなかった。 樋口プロも成績は今一つ伸びなかったが、日本のデパートの屋上でデモを見たことがあり、独特のスイングをアメリカで見られたのは感無量であった。 このコースはグリーンまわりのバンカーが人間の身長の3倍くらいあり、入ったら出すのが難しい。 ホームランすると向こう側にも口を開けて待っており、アマチュア泣かせのバンカーで、絶対入れてはいけない、というのが攻略のポイントだった。

 あるシングルの先輩から「お前はゴルフに向いていないよ」と言われ、そうかも知れないと思った。 というのは、私は高校生くらいから正座が出来なくなっていたからである。 つまり、筋肉が硬いのである。 ゴルフの上手い人は頭が良く、筋肉が柔らかい。 しかし、41才のとき、努力の甲斐あって、業界の月例杯で2か月連続で86と82が出て、ネットがアンダーパーとなり、連続優勝、ハンデがついに「9」とシングルになった。 82をだしたときは「ゴルフってこんなに易しかったのか」と思えるほど不思議な感覚で、17番を終わった時点で18番がパーならついに80を切れると、期待したが、2打目がグリーン前の池にポチャリでトリプルボギーを叩き、82となった。

   ニューヨークのロングアイランドにあるJFK(ジョン・エフ・ケネディ)空港の近くに、Bethpage State Park Golf Coursesというパブリックコースがある。 

 ここにはYellow, Green, Blue, Red, Blackと初心者用から高級者用と異なる難易度のコースがある。 今回この記事を書くにあたって調べたら、料金が高くなっていて驚いた。 それでも、18Hで一人5千円から1万円と日本より大分安く遊べる。(高齢者割引もある) 私は妻と小学生と中学生の息子二人と、四人でよく週末にイエロー・コースで遊んだが、こんなことは日本では出来ないことである。 

ゴルフボールへの思い(2)

                                                            (四番ホール)

 日本でも社内、業界の月例杯はあり、業界コンペは参加費、ハイヤー代を会社が負担してくれた。 日本はパブリック・コースが少なく、会員権が無いとプレーがし難い。 先輩から平日会員権の新規売り出しの話を聞いて、埼玉の小川CCの会員になった。 これで、月一回は月例会に出られるし、接待にも使え、こっちが誘えば、相手も自分か会社が会員になっているコースに連れて行ってくれ、結構ラウンドが出来た。 練習場も値段は高かったが、歩いて行ける芝公園の西武プリンス系のドライビング・レンジで

練習した。 あとで後悔したが、此処でプロのレッスンを受けていたら、この後、全く違ったゴルフ人生、いや、人生の全てが違うものになったかもしれなかった。

                (五番ホール)

 技術の知識は先輩から教わることもあったが、専ら雑誌から仕込んだ。 コンペは結構多く、部内のコンペ、取引先の会社が出入り業者を集めてのコンペ、取引先の担当者との接待ゴルフ、友人・同僚とのプライベートなプレー、変わったところでは、ゴルフ雑誌が主催するコンペ、個人の確定申告を任せていた税理士事務所が主催する顧客とのコンペもあった。 時代が良かったのか、仕事が八割、ゴルフが二割程度の人生だった。 スコアは100を切るようになり、一番面白いレベルに到達していた。 この頃、あるメーカーの箱根の社員寮の温泉に招待された。 着いて風呂~食事の後、麻雀になり、それが徹マンとなり、朝五時ごろ、天気が良いので散歩に出たら、近所にゴルフコース付属の練習場があり、打っても良いというので、少し打たせて貰った。 そこの世話係の老人に「スイングがゆったりしていて良いよ」と褒められ、気分を良くした。 老人が「良いものを見せてやろうか」と言うのでお願いしたら、それがびっくり仰天の技であった。 足元に生えている葉の細い雑草をむしって、小さな輪をつくり、ボールをテイーにのせ、ボールの上に草の輪をのせ、更にその上にもう1個ボールを載せた。 やおら、バッフィー(4番ウッド)を取り出し、「下のボールは普通に真っすぐ前に飛び、上のボールは頭上に真っすぐ飛びあがるから、良く見てな」と言う。 所謂、達磨落としである。 一回目は2個とも前に飛んで失敗。 2回目は見事成功。 みんな拍手喝采。 老人は元ツアープロで、活躍中の誰それは弟子だと言い、また、びっくり。 

            

ゴルフボールへの思い(1)

               (一番ホール)

 TVで見ていて松山プロのアプローチ・ショットに舌を巻いた。 流石、世界7位である。 かって、というのは、30年以上前だが、世界の強豪たちのショットと日本人プロのショットを較べて見ていて、「世界は遠いなあ」と溜息をついていたのが嘘みたいである。 改めて、日本人の秘めたるパワー、というか、努力・執念と可能性を信ずべきだという、自信をくれたようで嬉しくなった。

               (二番ホール)

 学業、芸術、スポーツ、どの分野をとっても、能力・意欲とも無かったし、ゴルフは、始めたのが29才と遅かったのに、ゴルフ狂になってしまった。 車の運転も私のは最初はニューヨーク免許だが、いずれも、会社にニューヨークに駐在させて貰ったお陰なのである。 現地法人の社長がゴルフ好きで、健康のためだからと、ゴルフを奨励した。 また、アメリカは練習場も安く、コースも安い。 だから、平日の仕事の後はドライビング・レンジに通い、夢中で練習をした。 一回に300発以上、たまには、500発打ったこともある。 会社の昼休みには、ゴルフの技術、クラブ、プロの成績などの話で盛り上がっていた。 早くハーフ50を切りたいと、無茶苦茶ボールを打ち込み、グラブをしていても、手の平や指のまめをつぶし、血まみれになりながら、バンドエイドを貼って打ち続けた。 

               (三番ホール)

 毎月一回は会社や業界の月例杯があり、空いている週末は、先輩・同僚達とラウンドした。 アメリカは日本と違い、パブリック・コースが多いから、早めに行って並んでスタートを取る。 メンバーコースもコンペだと取れるコースがあった。 先輩たちのなかには、プライベート・ハンデながらシングルが何人もいた。全ての先輩は私より腕が上で、ハンデを貰って握る(賭ける)ゲームも面白かった。 最初の駐在は家庭の事情で2年と短く、100は切れずに帰国した。

マイカーものがたり(後編)

 帰国後はまず、子供の時からの夢だった、トヨタのマークIIを購入。 ニューヨーク時代、米国人マネージャーの一人がニッサンフェアレディZを褒めていたので、買ってみた。 その後、トヨタの高級車ソアラが欲しくなり購入、一度に3台のマイカーを持ってしまった。 駐車場は東京に2台分借り、息子のアパートにも2台分借りた。 日本はガソリン代がアメリカの4倍と高いので、3000CC以上のエンジンは

興味なく、その意味では、フェアレディZソアラのエンジンは3000CCだったがパワーには満足した。 しかし、マークIIの2000CC プラス ターボは力不足が明らかであった。 フェアレディZもハンドルが重いのが不満だった。 米国に輸出していたのは300馬力で、国内に販売されていたのは250馬力とかで、そういうことがわかると興味を失った。 一応、味をみたので満足し、フェアレディZは若い人に安く譲った。 マークIIは翌年度モデルでターボが改良されたと聞いて、買い替えてみた。 そして、この車は満足できたので長期間使用した。

 外車は値段ばかり高く買う気は起らなかったが、ポルシェだけは少し考えてみた。

だが、価格は高く、メンテも大変だから諦めた。

 フェアレディZを買ったのに、プリンス・スカイラインの存在に気が付かなかったが、まだ、人気が出る前だったのかもしれない。 乗ってみたかった車ではある。

 トヨタはまだソアラ以外に買いたい車種がなかった。 結局、平成10年にプレミオ

2000CCという、満タンで1000キロ走れ、トルクが20キロとアクセル・レスポンスが良い車が登場、マークIIから乗り換えた。 18年で9万キロ乗っているが

毎年12か月点検を欠かさず、新車のような乗り心地で、これが最後のマイカーと思い定めている。                              (完)