へー、そうなの? 第二十七話

 私の育った家は東京の麻布にあった。 築何年かは分からない。

太平洋戦争の末期の東京大空襲で焼けなかった。 理由は米軍機が

東京湾から東京上空に入ってきて焼夷弾を投下したときに、外国の

大使館は避けたのだが、我が家はソ連大使館(現ロシア大使館)の

崖下に近いので助かったと聞いた。 然し、直ぐ側を「古川」という

用水路が流れており、標高ゼロメートルに近かった。 大雨で氾濫し

道路が冠水したこともあった。 住居は床下を高くして建てている

家が多かった。隣家に井戸があったが、深さ2~3メートルが水面

だった。 家の前の道路は可なり広かったが、積載重量2トン位の

トラックが通過しても、家がミシミシ揺らいだ。 それほど地盤が

柔らかく、土質も水分が多かったということである。

 

 親がリフォームを繰り返し、地震がきたら倒壊しそうな状態で、

私が相続してときにコンクリートの建物に建て替えることにした。 

ところが、1階を煎餅屋を営業する店子(テナント)に貸していたので、

1~2階を店子、3~4階を私の所有と部分所有で建てることになった。

 

 ところが、3階建までなら良かったのだが、4階建だと地盤にかかる

重量が相当なものになるので、基礎をちゃんとしなければならない。

地下13メートルまでボーリングをして、地盤を調べた結果、6本の

パイルを打ち込むことになり、これだけで、1千万円かかってしまった。

お蔭で建築費が嵩み、ローンの支払いに苦労することになる。

 

 昭和末期のバブルが私にとっては「神風」だった。地上げ屋が跋扈し、

建て替え前は1坪あたり60万円だったのが、800万円になったという

噂があったと思ったら、直に1200万円という情報が飛び込んできた。

そのうち、我が家にも地上げの話が来たので、2000万円なら売っても

良いと云ったら、1600万円ならと云う。 そこで、自分の持ち分だけ

売って、後のことはゆっくり考えることにして、現金を受け取り、

ローンを返済し、身軽になって賃貸マンションに引っ越した。 

(つづく)

まさか! ほんと? 第二十六話

 あまりにも昔の話で、かつ、馬鹿げた話をします。

 

 昭和の末期から平成2年位迄、バブル経済という事件が

ありました。 そうです、あれは、誰かが仕掛けた金融ジャック

みたいな事件でした。 あの金余りを発生させたのは誰だったのか。

 

 私は大学卒業と同時に、総合商社に入社したのですが、会社が

丁度増資新株を社員に譲渡してくれるという幸運に遭遇しました。

何故かと云いますと、1株50円という額面で売ってくれたからです。

でも、確か2千株だけだったと思います。つまり、全部でも10万円です。

然し、その頃の初任給は1万3千円位だったから、ローンで購入した筈。

ところが、直ぐに、120円位に値上がりし、売却した資金で他社株の

購入・売却を繰り返しましたが、自社株の売却益が一番大きかったという、

皮肉な結果でした。 しかも、自社株は、その後も順調に値上がりしました。

 

 その後海外駐在もあり、25年過ぎた時、バブルに遭遇し、玉乗り

よろしく、バブルに乗ってギャンブルを楽しみました。

 

 手を出したのは、株・社債、マンション、ゴルフ会員権です。

儲かりましたね。 凄かったのは、東京電力の株式です。 

額面500円でした。それが、2千円位でしたが、信用取引

1万株購入。証券会社のいうままに売却したら4千万円の利益です。

その証券会社の次のターゲット株を30万株強売買したら、利益は

3千万円です。他の取引は大したことはありませんでしたが、

含み損は即刻切り捨てたので、トータル的にはプラスでした。

 

 ゴルフの会員権は全て利食い出来ました。ただ、売った後から

買ったコースより、手放してしまったコースのほうが値上がりが

大きく、儲けそこないはありました。

 

 マンションは最初は資金が株やゴルフ会員権のほうに行って

いるので、中古のワンルームを2戸購入。そのあと、株の利益で

少し大きい新築1LDKを購入。その後、本格的なマイホームを

建てたあと売却しましたが、すべて、かなりの利益がでました。

しかし、税金を納めると大して残りませんでしたが。

 

 お金が出来たらクルーザーを持ちたいと思っていましたが、

その前にバブルの幕は下りてしまいました。

 

 最近、競馬で持ち馬が優勝して賞金を稼いでくれたなんて

話を聞きますが、こういう話を聞くと、私のギャンブルは

何という事は無かったと思う次第です。

 

 次回予告:車と家を建てるという道楽の話。

 

 

 

へー、ほんと? 第二十五話

 二十四話からの続きです。 

元看護兵でDJの若いアメリカ人の男と韓国人女性の夫婦との

交流のお話しです。二人は男が韓国に駐留していた時に知り合い、

結婚して米国に来ました。コロラド州デンバー市に陸軍の基地が

あり、男はそこに勤務していましたが、人員整理があり、職を

失い、DJというアルバイトをしていました。女性は25才で

韓国バー・レストランで働いていました。彼女の収入のほうが

多く、自宅のオーデイオ・セットも彼女が買ってあげたとの

ことでした。

 

 そこに日本人商社マンの彼が現れ、彼女のいるレストランに

頻繁に訪れ、二人は親しくなります。 彼女の同国人の友達が

やはり米国軍人と結婚し、小さい子供が二人いて、幸福な

生活をしており、彼女に頼まれて彼の車で友達一家に会いに

行ったこともあります。又、夫婦を日本レストランに連れて行き、

天ぷらやすき焼きをご馳走したこともあります。

 

 ところが、彼女から夫と別れて自分のアパートを借りるという

話を聞かされます。理由は夫からDVを受け、警官を呼び留置所に

入れて貰ったことがあり、弁護士を頼んで離婚協議に入ったからだ

と分かります。 その弁護士はコロラド大学出身で、彼女の働く

店が開業の時、リッカ―・ライセンス取得で面倒をみた関係で

彼女の離婚相談にのっているのでした。その弁護士は妻と別居中

とかで、彼女を自宅に連れて行ったこともあったそうです。

彼女に頼まれて、その弁護士の事務所に彼女を車で連れて行った

こともありました。女性事務員を二人おいていて、繁盛している

ようでした。彼女はその弁護士の前では小さくなって、頼りに

しているようでした。

 

 アパートに引っ越したので、部屋に行ってみると家具が殆ど

なく、直ぐに家具屋に連れて行き、必要最低限の家具を購入。

支払いはローンとし、1回目は彼が払ってあげました。それと

アパートの1回目の家賃もお祝いだと云って小切手を渡します。

彼女は大きいウオーターベッドを持っていて、バスルームで

水を注入するので、手伝ってと云われ、手を貸します。

 

 彼女を店が終わった後アパートまで送り、部屋に上がって

飲んで、泊ったこともありましたが、彼はベッドではなく、

カーペットの上に寝ました。彼は好意は持っていたが、

離婚協議中だから、それ以上には進めず、彼女も頼りには

しても、それ以上の気持ちは無かったでしょう。

 

 そのうち、彼に帰国命令が来ますが、用事があって車で

ニュージャージー州の米国本社に向かいます。

バックミラーに映ったロッキーの山なみと空を見て、

何とも言えない感動を覚えたとのことです。

(写真はネットからの借り物)

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へー、ほんと? 第二十四話

 アメリカ西部劇を好きな人って最近は少ないでしょうね。

これは、現代版「シェーン」みたいなお話しです。

 

 彼は49才の日本の商社マン。 普通なら部長職で、更に、

重役になるか、関係会社に出向させられるかという年齢。

自分で開発した商権でもあれば、分社化で社長という

可能性もあります。

 

 然し、彼の場合、数年前から新規商売の開発要員で、組織

からは外れていました。 このたびは、電子関係の盲点とも

いえる、コロラド州デンバー市のワンマンオフィスで

新ネタを探すことになります。

 

 勿論、家族は日本に残して単身赴任です。昼間は、新聞記事

から拾ったネタの調査で近隣のベンチャー企業訪問でつぶれます。

朝は自炊、昼は適当に外食ですが、夜も最初はレストランで

食事するだけだったのが、あるとき、バーに入ってみました。

店内は凄く広く、踊ることも出来そうで、音楽が流れていました。

その音楽はガラス張りの小さなボックスで若い男性DJがレコードを

かけていたのでした。 彼が休憩で出て来たのを掴まえ、一緒に

一杯飲まないかと声をかけました。 しばらく飲んだところで、

妻が韓国人で韓国バー・レストランで働いているから、覗いて

みたらどうか、というので、その店の場所を教わって出ます。

そこへ行って彼女にご亭主から紹介されて来たと告げます。

テーブルに一緒に座って、ウイスキーの水割りを作ってくれます。

つまみに焼き魚を取ると、韓国から空輸で取り寄せたものとかで、

大変いい味でした。 奥の方にダンスフロアーがあり、数曲相手を

してくれます。 夫のアメリカ人は元陸軍の看護兵だったが、除隊

してアルバイトにDJをやっており、彼女が養っているようでした。(続)

 

 

 

 

へー、ほんと? 第二十三話

 二十二話の続きです。 説明が遅れましたが、彼が突然一人で

クラブに行き出したのには理由がありました。 

彼は最初は29才でニューヨークに単身赴任、2年で一旦帰国、

36才で二度目のお勤めでした。 

元々筋肉が異常に堅かったのが、いろいろな原因が重なり、

41才で「四十肩」になり、幸い半年で治ったものの、

筋肉への負荷を減らす必要を感じます。

 

 彼の住まいはニューヨーク市のクイーンズ区の中心、ロング

アイランドのジャマイカという地域にありました。

ここは、ジョン・F・ケネデイ空港にも、ラグアーデイア空港にも

近く、会社のオフィスがあるマンハッタンのダウンタウンにも車で

1時間以内と便利なところにありました。

 

 ところが、ニューヨークから南のニュージャージー州にある

営業所に勤務することになります。 彼の住まいからは車で90分

かかります。 常識では、勤務先が変われば、近くに転居する

のですが、子供達の学校の都合で転居しなかったのです。

 

 この車の通勤が筋肉に負担になる筈で、その解消のために、

帰宅途中、時々は、マンハッタンで休憩することにしたのです。

そして、馴染みになった女の子のいるクラブに週に1~2回

立ち寄ることになったのです。

 

 韓国人は日本人よりおおらかで積極性があるのですが、この

彼女も最初すごく暗かったのが、何回も会ううちに、どんどん

打ち解けてきて、理由を話してくれました。 彼女は結婚して

数年経っても子供が出来なかったのですが、夫は外に若い女が

出来、妊娠したので、別れてくれと云い、子供が出来ない

自分が身を引くしかないと、離婚に応じたそうです。

 

 然し、怒りと絶望感で睡眠薬自殺を図ります。ところが、

量が多過ぎたのか、苦しみで床を転げまわりながら吐いて、

未遂に終わります。そのときの、寒さと苦しみと恐怖は二度と

繰り返す気が起きない程だったそうです。

 

 その告白からあとは、完全に立ち直り、彼との仲も深まり、

友達のアパートに一緒に行くと、ボーイフレンドだと紹介する

ようになります。お互いの知っているレストランで食事をしたり、

彼女がオーナーを知っている他のクラブにも一緒に顔をだします。

 

 ところが、彼女の態度が冷淡になってきて、どうしたのかと

聞くと、みんなに結婚している人と付き合ってどうするのと

云われたとしょんぼりしています。 これには、答えようもなく、

ついに、あるとき、突然電話が通じなくなり、アパートのドアを

叩いても返事がありません。 LOVE IS OVER でした。

然し、彼女が苦境を乗り越えるのに手を貸せたという満足感が

残り、何も言わずに姿を隠したのも彼女の思いやりと受け止めた

そうです。

 

へー、ほんと? 第二十二話

 ネタもとの彼が自分の小説だかエッセイに使おうと

していたとかで、出し渋っていた話ですが、肝心の

ところはぼかす条件で教えてくれました。

 

 40年位昔のことだそうです。 ある、偶々、目についた

クラブに一人でふらりと入ります。 テーブルに付くと、

若そうだが、服装も顔つきも陰気な女の子が席につきます。

彼の方は初めてだから仕方ないかと、ブランデーの味を楽しむ

ことに専念します。 彼女はほとんど口を開かず、彼は一生懸命

飲み物を勧めます。 結構アルコールは強く、数杯飲むと

ようやく年齢を教えてくれます。 老けて見えたが、25才

とのこと。 ところで、順序が逆になりましたが、場所は、

ニューヨークのマンハッタンのミッドタウンです。

そして、コリアン・クラブであります。二階で、結構テーブル

が多いのですが、客は他に全くいません。 しかし、時間が

経つと若干客が入り、そのうちに、3人のバンドマンが入って

来て、カラオケの伴奏を始めます。 そうすると、彼女は

アルコールが入ったせいもあって、すっかり陽気になって

ステージにあがり、ハングルの演歌をご機嫌で歌い出します。

ところが、これが上手で聞きほれます。更に「踊りましょう」

と云って、手を引っ張ってステージの前のフロアーに行って

日本の演歌の伴奏で踊ります。あとは、フルーツの大盛りが

出て来て、ようやく、クラブに遊びに行った気分になります。

又、忘れましたが、彼女は日本語は出来ませんが、英語がある

程度出来、更に、漢字で筆談して充分意思の疎通は出来ました。

勘定は日本のバーより安く、又、来るよと云って帰ります。(続)

 

へー、ほんと? 第二十一話

 彼は初めてニューヨークに単身赴任したとき、

若いハワイ生まれの中国系アメリカ人の男子大学生と、

同じく若いインドからの男性技術研修生と一軒家の

二階に、部屋は別々ですが、キッチン・トイレを

シェアして、共同生活したことがありました。 

 中国人の大学生は昼間働き、夜、学校に通っていました。

いよいよ、卒業の時期となり卒業論文を提出することに

なりました。 ところが、大学生はタイプが上手に打て

ないのです。 他方、彼はタイプが得意なので、大学生の

原稿を預かり、清書してあげました。 

大学生は無事卒業して、下宿から出て行きました。 

 インド人のほうは、毎日出勤ではなく、部屋にいる

ことが多く、よくベッドに寝ていました。 

一度、カレーを作ったから一緒にと云われて、口に

入れたら香りが強いのと、辛いのとで食べられません。

一度で懲りてしまったそうです。 

 ある時、インド舞踊団が来ていて、某大学の講堂で

舞台があるから、一緒に観に行かないかと誘われて、

見に行ったそうです。 初めての体験であり

その後もチャンスは無く、良い思い出を貰ったと

有難く感じたそうです。

 ダンスといえば、フラメンコもニューヨークで

初めて見たそうです。 先輩がショーをやっている

レストランに連れて行ってくれたのです。

 あとで知ることになりますが、フラメンコは

スペインでもほとんど見ることがないそうで、

彼はアルゼンチンでもう一度見るという幸運に

恵まれます。

 次は、大学のキャンパスの話です。 

彼は家族とボストン近郊のハーバード大学とMIT=

マサチューセッツ工科大学のキャンパスに行った

ことがあります。 

 日本でも本郷にある東京大学のキャンパスには

一人でも行ったし、彼女と散歩に行ったこともあり、

米国に行った以上ハーバード大学のキャンパスは

見ておこうと決めており、そのあと、港のピア4にある

突堤の先にある有名レストランでロブスターを食べて

きたのだそうです。

 ニューヨークには陸軍士官学校がありますが、この

資料館にも行って来ました。 そして、コロラド州

デンバー市に駐在した時は、ボールダーのコロラド大学と

コロラドスプリングスの空軍士官学校のキャンパスも

覗いて来たとのことです。

 アメリカは観るところが限られていることもあり、

普通の男性には大学巡りも観光になります。

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観て来たインド舞踊はもっと古典的で、中国の

京劇みたいなものでしたが、適当な写真がなく、

ネットから現代的なものですが、借りてきました。