へー、ほんとに? 第三十三話

 今日はある女性とメールで恋愛論をしました。

ちなみに、私は男です。

我々は恋愛小説の愛好家であり、彼女は恋愛小説を書く方です。

私は恋愛小説を読むのが好きな、単なる一読者です。

ところが、昨日、彼女から深刻なツイートが来て、恋とは何か、

愛とは何かと云う話に発展してしまいました。

 

 私は一般論として、

恋は一人でもできるもの。

愛は二人で無いとできない。

恋は過程。愛は結果。

恋が育って、愛となる。

恋とは相手を独占したいという欲望。

愛は相手を大切にしたい、相手に尽くしたい、

という感情。

と、何処かから引っ張り出して来た文言を並べました。

 

更に、辞典からの引用で、

<恋>

特定の異性に深い愛情を抱き、その存在が身近に感じられる

ときは、他の全てを犠牲にしても惜しくない程の満足感

充足感に酔って心が高揚する一方、破局などを恐れて

不安と焦燥にかられる心的状態。

<愛>

個人の立場や利害にとらわれず、広く身の回りのもの

すべての存在価値を認め、最大限に尊重していきたいと

願う、人間本来の暖かな心情。

 

とメールしたのですが、それに対し、彼女からは、

男と女では違う。男にとって恋は始まって終わるもの。

女にとっての恋は、物心ついた時から、ずーとしているもの。

という言葉が来ました。 私は男だからか、理解不能な

言葉でした。

 

 私は不真面目な男で、彼女は真面目過ぎる女性と思う

のですが、どうでしょうか。

 

 

 

 

 

まさか! ほんとに? 第三十二話

 昔、ある男が大学に入学出来たとき、文通というものの

存在を知り、生れて初めて女の子と手紙のやりとりを始めた。 

それまでは、高校受験、大学受験に没頭していたから、

女性とのつきあいは一切無く、一生懸命文章を考えて出したら、

全員から文通したいとの返事が来た。 然し、みんな直ぐ止めて

しまい、残った相手は一人だけだった。その女性は東北の漁港に

ある、市の図書館の司書だった。 

 

 彼女から地元のお寺が無料で泊めてくれるから、来ないかとの

誘いがあり、大学3年の夏休みに東北周遊券を買って、彼女に会いに

行った。 お寺の和尚さんは東京の大学を出ていて、奥さんも

仙台の女子師範を出て、教員をしてことがある素晴らしい方だった。

高校生を頭に女の子3人、男の子一人の理想的なご家族でもあった。

和尚さんは住職としての職務以外に、市役所にも非常勤で顔を出し、

保育園の院長もされ、奥さんも不幸な女性たちの福利厚生の分野で

奉仕活動をしておられた。

 

 司書の彼女は毎日勤務を終えると、お寺に来て食事の後片付けを

したり、休みの日には周辺の観光につきあってくれた。

 

 彼が就職した後、お寺の長女が東京の大学に入学したとき、母親が

一緒に上京し、保証人になってくれと頼まれたことがあった。

 

 残りの子供達もみんな東京の大学に入学、女の子たちは東京で

結婚した。 男の子は父親と同じ大学を出て、住職を継いだ筈。

 

 それから、大分経って、奥さんから「紫綬褒章を頂いた」と

喜びのお便りと、重要文化財の六角堂の前で撮影した記念写真を

送って頂いた。

 

 図書館司書の彼女とはその後文通していないのが残念である。

 

 

 

へー、ほんと? 第三十一話

 ある男が大学3年のとき、社交ダンスの講習会で何人かの学生やOLと

親しくなり、デートに発展した。 一人、体格が良く、顔は丸顔で

朝顔が開いたような派手な顔立ちの女性がいた。 背が高いので

他の女性より目立っていた。 講習会の後、男が後をついて行き、同じ

バスにのったら、彼女に「何処まで行くの?」と訊かれたが、言葉を

濁し、結局彼女の降りるところまで一緒に行ったら、彼女が「家に

来る?」というのでついて行った。

しかし、何故かこの女性とはデートに発展しなかった。 

多分、見かけが派手で気後れがしたのだと思う。

 

 2年後、就職して、昼食を食べに外に出て、事務所に帰る途中で、

偶然彼女と再会した。 その時は名刺を交換しただけで別れた。

男には既に結婚の約束をした女性がいたから、一切連絡をしなかった。

ところが、ある日曜日、彼女の方が男の自宅に訪ねて来たのである。

母親は大いに気に入り彼女を歓迎した。

 

 男は状況がまずくなりそうなので、尻を叩くように彼女を連れ出し、

歩きながら、結婚を約束した相手がおり、彼女との交際は出来ないと

伝えた。 彼女は一旦は納得したように見えた。

 

 ところが、ここで男は妙な話を始めるのである。

「実は、夏休みを取って東北に一週間位の旅行に出かけるのだが、

結婚を約束している彼女が父親の反対で一緒に行けない。 

良ければ一緒に行ってみますか?」

 

 驚いたことに、彼女は「是非連れて行って」と答える。

男は喜んでしまい、翌日一緒に「周遊券」を買いに行く約束をする。

 

 男は、出発当日、上野駅のホームで彼女を待ちます。 

然し、列車の発車時刻が近づいても彼女は現れません。

 

 何事も無くて良かったのだが、詰まらない結末で

お粗末様でした。

 

 

 

 

 

 

うそー、ほんと? 第三十話

 私自身、未だに不思議に思っている事。 

それは、ゴルフと「四十肩」の関係である。 

直接の関係は無いかも知れないが、私の場合、ゴルフで

ベストスコアが出た直後に「四十肩」の症状が出たのである。

 

 ゴルフを始めたのはニューヨーク駐在となってからで遅かった。

社内は大学でゴルフ部に居た人間もおり、上司も東大出でゴルフも

シングル級だった。 ゴルフは可成り頭脳を使うスポーツである

ことは間違いない。 然し、後になって分かったが、筋肉が柔らかく

ないと上達は難しいゲームでもある。 私は筋肉が異常に堅かった。

胡坐がかけず、正座も厳しかった。

 

 社内コンペ、業界コンペと、腕を磨く目標もあり、更に、賭け

ゴルフが常識だったから、いやでも夢中になった。

内地に較べて遥かにプレーする機会が多く、30才で始めたのに、

40才位で80を切りそうなレベルになった。

 

 業界コンペにハンデ26で出て、86でまわり、優勝、ハンデは

18に下げられた。次の月のコンペで82が出てハンデは9になった。

次の月はハンデがきついから入賞も諦め、いいスコアだけを目指した。

ところが、このとき、左腕の付け根に痛みが出て、ウッドのクラブが

振れなくなった。 やむを得ず、3番アイアンでテイーショット、

ロングホールは2打目も3番か5番アイアンでショット、3駄目は

ウェッジではなく、9番アイアンでピンそば、バーデイという

信じられないゴルフをやった。 然し、そうそうラッキーは続かず、

スコアーは90を超えた。

 

 その次のゲームで痛みが右腕の付け根に移り、クラブが振れなく

なり、会社でタイプライターを打ったり、ボールペンで字を書くと、

指先まで痛むようになり、ここから半年にわたる治療の結果、再び

クラブを振れるようになるが、長いクラブを振れるようになるのは

可成り後のことになる。

 

へー、ほんと? 第二十九話

 斜面に建てたこの家は私と若い設計士で相談しながら

デザインを決めた。 間取りや装備は考えられることを

全て盛り込んだので、結構面白いですよ。

 

【1】目玉はお風呂である。なにせ、温泉だから、露天風呂の

   雰囲気を味わえて、4人一緒に入れる浴槽をタイル張りで

   手作りにして貰った。 

   ロケーションは窓から伊豆スカイラインを見上げるところ、

   建物のコーナーに大きなガラス窓をかぎのてに取り付け、

   最高の見晴らしを楽しみながら入浴出来るようにした。

 

【2】全体の形は、道路から数段の石段を下りると玄関、

   前面は一階建て、後方は二階建てで、前と後ろの接続部分で

   半階段上ると二階、半階段下りると後ろの一階部分になる。

   斜面の特徴を生かしたつもり。

 

【3】風呂の次の目玉は床暖と給湯システムである。調べたら、

   ドイツ製で床暖、給湯、風呂(温泉)の追い炊きが出来る

   システムがあり、伊東に代理店があるので、メンテナンスも

   安心だし、採用した。 燃料は何でも使えるが、灯油は氷結

   しないし、低価格、爆発の危険も無く、地震でも多分安全、

   かつ、一番気に入ったのは、近所のGSがタンクを設置して

   勝手に補給をしてくれるので、灯油仕様にした。

   システムの唯一の欠点は、外出から帰ってスイッチを入れても

   部屋が暖まるのに30分かかるから、電動のエアコンを併用

   しなければならなかったこと。 ボイラーは地下室に作った。

 

【4】床暖は銅管を床下に敷き詰め、特殊なオイルを通して床材を

   暖める仕組み。スイッチが各部屋にあり、個々に暖めることが

   出来る。 伊豆と云っても下田のほうは温暖だが、丹那盆地

   あたりは箱根に似た気候で、冬は寒い。 だから、風呂の洗い場

   のタイルの下、トイレの床下にまで配管して貰った。実際に住んで

   から、ケチって廊下の床下に配管しなかったことを後悔した。

 

【5】フィンランドの客先を訪問したとき、オフィスの地下室のサウナ

   に行って、社長と一緒に入り、「裸の付き合い」をしたことを

   思いだし、風呂のスペースを削ってサウナを付けた。電源も

   200ワットなので、メーターを2個付けた。ところが、

   住んでから、最初のテストだけで、実際に使うことは無かった。

   風呂が24時間追い炊きだから、何時でも入れて、サウナの

   出番が無かったのである。200万円の損。しかし、あとで、

   家を売却するときに「サウナ付き」ということが生きた。

 

【6】アメリカのレストランで、天井にゆっくり回っているファンが

   あったのを思いだし、洋間には2個づつ付けたが夏は非常に

   快適だった。

 

【7】システムキッチンは東京のヤマハショールームに行って、

   オーダーしたら、女子社員が我が家を見に来て、詳細に

   打ち合わせ、浜松の工場に発注してくれた。

 

【8】間取りが三つ目の目玉。 日本の家の間取りは6畳が基本。

   アメリカの家はとにかく間取りがゆったりしており、帰国して

   自分が建てるなら、最低でも8畳の部屋にしようと決めていた。

   今回は土地代が安くて、敷地が広いので、上物にあてる予算は

   余裕があった。 間取りは、LDKは多分16畳、ベッドルームが

   10畳、和室が10畳、オーデイオ兼ダンスルームが16畳、麻雀用

   の掘り炬燵つきの4畳半など、広さだけは充分な間取りにした。

 

 何もかも、注文で建てて貰い、殆んど不満は無かったが、6年半で

東京が恋しくなり、国分寺市にプロが建てた建売を買い、伊豆の家は

転売したが、買い手には「こんな値段で良ろしいのでしょうか」と

云われた。 

   

へー、ほんと? 第二十八話

 常識的には家を建てるのは一生に一度である。

私の場合、戦争のために貧乏したせいか、ボロ家に長く住んで

普通の家に住みたいという欲望が強かったせいか、先ず、その

ボロ家をコンクリートのビルに建て替えた。 ローンの返済に

苦労があったが、普通なら定年まで勤めながら、残債の支払いを

していた筈であった。

 

 ところが、バブルという神風が吹いて、建てたばかりのビルを

高値で売却出来た。 そのあとは、値上がり期待で、次つぎと

マンションを購入しては売却したが、矢張り、持ち家の醍醐味は

一戸建てであり、自分でデザインして、建てて貰った家には、

格別の思い出がある。

 

 余談だが、持ち家の最初は温泉付き別荘を、伊豆熱川の小山の

上の平地に建てたことがある。 天気が良いと伊豆七島水平線

浮かんでおり、その眺めに一目惚れして、ローンで建てたもの。

然し、嘘みたいな話だが、未完成のまま、米国に転勤となり、

留守中に、地震で別荘地全体がガタガタになってしまい、道路も

ズタズタ、建物も住めない状態になってしまった。 

だから、一度も泊まらずに使用不能の廃墟になってしまった。

ところが、幸運なことに、隣家が工務店でこの別荘地内で

仕事をしており、物置に使うということで、原価で買い取って

くれたのである。

 

 東京都心の高速道路に近い、地盤の悪い土地に住んでいたから、

緑の多い、地震に強い土地に家を建てて終の棲家にしたかった。

湯河原、熱海あたりで、温泉付き別荘地を見て歩いたが、丹那

トンネルに近く、伊豆スカイラインから駿河湾を見下ろす斜面に

展開する大型温泉別荘地に敷地を見つけ、建物は普通の住宅の

仕様だが、使い勝手の良い家を目指した。別荘仕様だと高価な

ものになるので。

 

 然し、又も、基礎工事に費用を掛け過ぎた。 過去に、斜面に

建てて、一階に車庫がある家を見て、いいなあと思ったり、

アメリカの家が半地下があって、そこにボイラーや作業台

があったり、いろいろな品物の貯蔵場所になっているのを

見ていたから、斜面の敷地を取得したのである。

 

 地盤は丹那トンネルのそばで、地震の心配は無いという

宣伝文句を信用して買ったのだが、工務店と話し合い、

基礎は地震に耐えられる構造にしたら、基礎工事だけで

1千万円かかってしまった。更に、駐車2台分の基礎も

それだけで200万円かかった。 平地だったら、不要な

費用であった。(つづく)

 

 

へー、そうなの? 第二十七話

 私の育った家は東京の麻布にあった。 築何年かは分からない。

太平洋戦争の末期の東京大空襲で焼けなかった。 理由は米軍機が

東京湾から東京上空に入ってきて焼夷弾を投下したときに、外国の

大使館は避けたのだが、我が家はソ連大使館(現ロシア大使館)の

崖下に近いので助かったと聞いた。 然し、直ぐ側を「古川」という

用水路が流れており、標高ゼロメートルに近かった。 大雨で氾濫し

道路が冠水したこともあった。 住居は床下を高くして建てている

家が多かった。隣家に井戸があったが、深さ2~3メートルが水面

だった。 家の前の道路は可なり広かったが、積載重量2トン位の

トラックが通過しても、家がミシミシ揺らいだ。 それほど地盤が

柔らかく、土質も水分が多かったということである。

 

 親がリフォームを繰り返し、地震がきたら倒壊しそうな状態で、

私が相続してときにコンクリートの建物に建て替えることにした。 

ところが、1階を煎餅屋を営業する店子(テナント)に貸していたので、

1~2階を店子、3~4階を私の所有と部分所有で建てることになった。

 

 ところが、3階建までなら良かったのだが、4階建だと地盤にかかる

重量が相当なものになるので、基礎をちゃんとしなければならない。

地下13メートルまでボーリングをして、地盤を調べた結果、6本の

パイルを打ち込むことになり、これだけで、1千万円かかってしまった。

お蔭で建築費が嵩み、ローンの支払いに苦労することになる。

 

 昭和末期のバブルが私にとっては「神風」だった。地上げ屋が跋扈し、

建て替え前は1坪あたり60万円だったのが、800万円になったという

噂があったと思ったら、直に1200万円という情報が飛び込んできた。

そのうち、我が家にも地上げの話が来たので、2000万円なら売っても

良いと云ったら、1600万円ならと云う。 そこで、自分の持ち分だけ

売って、後のことはゆっくり考えることにして、現金を受け取り、

ローンを返済し、身軽になって賃貸マンションに引っ越した。 

(つづく)