文庫版小説の「解説」で見つけた小さな発見

 最近数年は年相応の体の故障であまり活発な動きが出来ず、読書の量が

増えた。名作の文庫版は中古で手軽に手に入る。 中古で見つからなければ、

ネットで購入できる。 文庫版には最後に「解説」がついていることが多い。

作者に失礼とは思うが、筆者はこの「解説」を読んで、内容に見当をつけて

から読み出すのが癖である。 内容が味気ないと、じれったくなって、

末尾を少し読んだりする。

 

 ちなみに、テレビ映画も面白そうな番組だけ録画予約して、タイトルを

ネットで検索し、「ネタばれ」や批評を読んで、観る価値ありと判断して

から観る。 映画は大抵2時間位の長時間だから、面白くないと途中で録画

を取り消すことが多い。 だから、なかなか最後まで観ない。

 

 小説は語句、文章、ストーリー、キャラの描写など想像を描きたて

られる要素が多いので、映画みたいに、途中で投げ出すことはあまり

無い。

 本文を書き出したのには、末尾の「解説」で興味深い現象に遭遇した

からである。

 以前、渡辺淳一氏の作品のファンとなり、偶々、「化身」という作品の

「解説」を読んで、何か分からないが胸にこたえるものがあり、その解説者

をネットで調べ、「天使の卵」という作品を購入して読んでみた。 

作者のお名前は村山由佳氏。

 

 直ぐファンになり、発売済みの小説をほぼ全て買い込んだ。 

その後の新刊は文庫化するまで待てず、単行本を購入して読んだ。

 

 その後、複数の作家の本を読み漁るうちに、大昔、五木寛之氏の

青春の門」を読んで、キャラの「信介しゃんと織江」のその後が

どうなったのかが気になり、もう一度最初から最後まで読もうと、

ネットで一括購入、読んでいる最中に20年振りに続編が出て、

それも直ぐ購入、第一部から第八部まで一気に読了。

 

 その後になって、「蒼ざめた馬を見よ」を読んで、更に、引き寄せ

られるように多くの作品のうち「恋歌」に注目。 五木氏の作品の

中で恋愛ものは珍しいので、ネットで購入。 いつもの如く、「解説」

を見たら、何と、解説者の名前は村山由佳氏。

 

「恋歌」新装版は2008年発刊。「ダブルファンタジー」執筆中だと

思われる。 「解説」の内容はお相手が五木寛之氏だけに、渡辺淳一

の「化身」のときとは大違いで、読んでいて肩の凝る思いをした。

 

勿論、最近はパソコンを多用するので筋肉は凝りっぱなしではある。 

      

五木寛之「青春の門」に思う

 若い時は勉強より文学全集を読み漁る時間のほうが多かった。

 年を取り、身体が老化してきたら、小説への興味が戻って来た。

 

 筆者は一人の作家が気に入ると、その作家の作品ばかり読むという癖

がある。

 近年の傾向は内田康夫の旅と歴史を盛り込んだ推理小説、風景の中に

男女の営みを描いた渡辺淳一の作品、そのあとは各賞に輝く女流作家に

触手を伸ばしていた。

 

 最近、忘れられない作品で、途中までしか読んでいない、五木寛之

青春の門」を最後まで読みたくなり、第一部「筑豊篇」から第七部

「挑戦篇」までの文庫版を一括購入した。 

40数年前から20年にわたり書かれたものを、一挙に読んでしまった。

 

 主人公の伊吹信介は、人生の目的を探して地球上を放浪するらしいが、

男なら誰しも憧れるヒーロー像である。 筆者も仕事ではあったが、

北南米、欧州、アフリカ大陸と距離だけは、伊吹信介を上回る足跡を

地球上に残し、似たような不安な思いを抱き、かつ、異国の風物、

外国人との触れ合いに胸躍らした体験の故か、彼の進む

将来は如何なるものか見届けたい思いが強い。

 

 驚いたことに、第七部で未完かと思っていたら、筆者が読んでいる

最中に、第八部「風雲篇」が20年ぶりに発売されると知り、すぐに

予約したら、正確に予定日の12月15日に到着、こ踊りして即日

読んでしまった。

 

 そして、同時に、来年2017年に続編第九部「続・青春の門」の

連載が始まるというニュースも届いた。 確かに、第八部でも物語は

途中である。

 半世紀をかけても、終わりの見えない物語というのは聞いたことが無い。

 

 もしも、筆者の方が先にこの世を去ることになったら、結末はあの世で

原作者から直接聞かせて頂こう。 

怪 我 の 功 名

(1)学校に上がる前、現場は銭湯。 何故か急いで入浴用道具一式を抱いて、

タイル張りの浴場から、板張りの更衣場に出ようとしていた。 

そのとき、僕が開けようとしたガラスのはまった戸を、逆に浴場に入ろうと

した大人が、勢い良く開けたものだから、僕は右手が空振りして、前のめりに

転んでしまった。

 身体の何処かがガラス戸にぶつかり、ガラスが割れて、大きな破片が、

お臍(へそ)の真後ろの背中に突き刺さった。

 後のことは覚えていないが、当時は病院に行って縫ってもらうことはしな

かった。背中だから自分では分からないが、直径2~3センチの傷跡が

残っている筈。

 

(2)終戦直前、千葉の縁故疎開先(親戚)にいた時のこと。 国民学校

3年(9才)だった。 薪を拾いに裏山に入って行った。 直径30センチ、

長さ3メートルくらいの丸太を見付け、大喜びで肩に担いで歩き出した。

 ところが、足元が見えず切り株につまずいて転倒。 切り株のまわりが

腐り、残った芯が尖っている上に、脚の脛(すね)がぶつかり、芯が突き

刺さった。 痛かったが丸太を残し、家に帰り包帯を巻いて貰った。 

その丸太がどうなかったは覚えていない。

 

(3)小学校5年くらいか、外で知らない子供たちと喧嘩になり、相手が多い

ので走って逃げて家に帰り、玄関のガラスのはまった格子戸を閉めて内側に

潜んだ。 それを見て、ガキどもは玄関に向かって石を投げた。ガラスが

割れて、破片が頭皮に刺さった。

 

(4)小学校6年のとき、校庭で野球をやっていた。 

打って一塁に走った。 塁を走り抜けても勢いが落ちず、鉄棒の支柱を

固定するネジの頭に膝をぶつけた。 

3センチくらいの割れ目が出来て、白い脂肪やピンクの血筋が見えた。

 不思議と出血はせず、打撲の痛みだけであった。 

今なら縫うところだが、消毒薬を塗って油紙と包帯だけで済ませた。 

これが「鎌鼬かまいたち)」だったんだと思う。 

傷跡は一応ふさがったが、痛みと皮膚のかゆみは治らなかった。

 

(5)大学生のバイトで調理場のアシストをやった時。 長さ30センチ、

幅5センチくらいの西洋包丁で豚カツに添えるキャベツを刻んでいた。

 左手の指でキャベツの皮を何枚も重ねたのを押さえておいて、右手に

持った包丁を上からまな板に落として刻むのだが、サクサクと気持ち

良く切っていたら、左手中指の爪の手前の皮膚をスパッと切り取って

しまった。 最初は先端をまな板につけて、刃の中央から後ろの方で

切っていたのを、慣れて来て、刃を完全に宙に浮かして落とすように

なって、やってしまったミスである。 腕を過信した結果でもある。

 

(6)同じ調理場でガラスのコップを洗っているとき、コップが割れて

いるのに気づかず、右手の中指の後ろ側を切ってしまった。

 

          「怪我の功名」とは

 

    怪我をするたびに、何かを学び、二度と同じミスをしなくなる

        小さな怪我を怖れなくなる

     全てに注意深くなり、大きな怪我をしなくなる

        これこそ、「怪我の功名」 

メ リ ー

 

 僕が中学生のときだったね、お前が北海道から送られてきたのは。

 

 シェパードのくせに、身体も大きいのに、仔犬が寄ってきても、

怖がって逃げるなんて、やっぱりメスだったからかなあ。

 

 名前はメリーしか思いつかず、両親も喜んでくれ、一発で決まった。

 自転車で散歩させているとき、自分よりずっと小さい犬に吠えられて、

急に逆走して僕と自転車を引きずり倒し、お蔭で僕は肘を擦りむいて

しまった。

 

 戦後数年後のことで、食べるものに不自由していたから、餌には

苦労した。 北海道産だから、じゃがいもを食べられるだろうと思い、

お肉屋さんで豚骨を安く分けて貰ってきて、豚骨ジャガイモ雑炊を

作ってあげたら、喜んで食べてくれた。

 

 折角、血統書付きのお婿さんを見付け、一緒にしてあげたのに、

お尻を地面にこするようにして、逃げ回ってばかりで、仲良くなって

くれなかった。 放し飼いにしていたから、種類の分からないオスと

仲良くなって、可愛い仔犬を10匹生んでくれた。 

幸い、全員雑種ではなくシェパードらしく育ち、一匹残らず貰い手が

見つかった。 一匹は残したかったが、餌の心配もあり、お前には可哀

そうなことをしたね。

 

 外で悪いものを拾い食いしたのか、帰って来てから苦しみ出し、

朝起きたら冷たくなっていた。 一度でも母親として子育ての喜びを

味わうことが出来たのが、せめてもの慰めだった。

 

 遺体は、庭も無いので、どうしようかと考えていたら、池上の本門寺で

ペットを引き取ってくれることを知り、ベソをかきながら毛布に包んで

自転車の荷台に載せて連れて行った。

 

 それ以来、別れが辛いから、生きものは金魚も小鳥も飼っていない。

 

麻 雀 道

 

 就職先は総合商社と決めていたので、大学時代、家庭教師でお邪魔していた

お宅の奥さんに、何かの拍子に、麻雀を習いたいのです、と申し上げたところ、

早速人を集めて実戦で指導をしてくださいました。 背中にくっつくように

膝で立ち、肩に片手を載せて、耳のそばで不要牌の切り方を囁いて下さい

ました。

 

 大学に畳部屋があり、食卓台があったので、上に毛布を掛けて、同級生と

ルールブックを見ながら、三人麻雀で練習しました。

 

 彼女が出来て、彼女の一家と将来の義理の兄弟と家庭麻雀を打ちました。

 勝ち負けは問題外でしたが、一人、建築士で理牌(りーぱい)をしない

男がいて、プロ級かと思いきや、勝負では目立ちませんでした。

 相手が弱すぎて加減したのかも知れません。

 

 就職してからは、仕事が忙しく、折角習った麻雀とは縁がありません

でした。

 

 ニューヨークに二年間単身赴任して帰国すると、社内麻雀も取引先との

接待麻雀も盛んになっていました。 ニューヨーク時代の上司が麻雀好きで

鍛えてくれたので、準備はできていました。 最初は負けてばかりでした。

 麻雀ゲームソフトを買って来て、家でも勉強しました。

 

 やがて、勝つときは大勝し、誘って貰えない時期もありました。

 

 麻雀は腕が六分で、運が四分と云います。 然し、何とか強くなれないか

考えました。 その結果、「負けない麻雀」を目指すようになりました。

「負けない」とは、無理に危険牌を切らず、結果、「放銃(振り込み)」

を減らし、安全牌を切りながら、「黙聴(聴牌しても立直しない)」で

あがって相手を蹴とばすようなことです。但し、ツキがきているか、

いないか、これを感じ取ることは大事です。

 

 勝っているときは、大抵、ツキが来ているので、より高い手にもって

いったり、強気で攻めることも重要です。 然し、危険牌と感じながら、

無理に放銃をしてはいけません。 一気にツキが逃げて行きます。

 

 やがて、会社を退職、伊豆の別荘地に住み、麻雀好きな住人が多く、

お互いに訪問し合い、家庭麻雀を楽しみました。

 

 今は、麻雀とは縁が無くなりました。 面子が足りないときは何時でも

声を掛けて下さい、と言いたいところですが、もうお相手は無理でしょう。

はり(鍼灸)の神秘

 

 

 

 3~4年前テレビ放送された韓国ドラマ「馬醫(ばい)」は鍼を打つシーンが

多かったですね。 このドラマはストーリーも面白く、キャストも素晴らし

かったのですが、それにも増して鍼灸術の実際と重要性がたっぷり描かれ

ています。

 

 鍼灸、つまり、<はりと灸>という中国で二千年の歴史がある、神秘に

満ち溢れた療法について、その中身はまだまだ知られていないと思うのです。

たとえば、あなたが首や肩が痛いときに、「はり」を勧められたら何と言い

ますか。「痛そうだから嫌だ」とか「ほんとに効くの?」とか言いませんか?

 

 これは、私と妻がいかに鍼灸の恩恵に浴しているかと言うお話しです。

 私が100%鍼灸の力を信頼しているのは、ニューヨークで「四十肩」

にかかった時, 半年の間熱心に治療すると共に、鍼灸のことを詳しく教えて

くれた若い中国人の鍼灸師のお蔭です。 鍼灸の原理は人間および馬などの

動物が、生まれながらに持っている、「自己治癒力・再生能力」を引き出して、

病を治すという考え方にあります。その鍼灸師は「はり」で殆んどの病気は

治ると云っていました。 私はそれを信じています。

 

 私の「四十肩」はニューヨークで41才で発症したのです。 

「四十肩」とか「五十肩」になる人の割合は知りませんが、かかって

みないと、その痛さ不自由さはわかりません。 

私の場合、原因として思い当たることは、いくらでもありました。 

大学時代からタイプライターを打つのが好きで、毎日何時間もタイプの

前に座っていました。  就職してからも、よく10時位まで残業して

タイプを打っていました。 海外との連絡もテレックスと云い、やはり、

キーを打つ仕事です。

 

 次に、ゴルフとボーリングです。 ゴルフでは練習ボールを打ち過ぎ、

まめをつぶして血も出ましたが、皮が厚くなって治まりました。 

ボーリングは1回に10ゲーム位はプレイしましたが、時々徹夜になる

こともあったのです。(ニューヨークはオールナイトのボーリング場が

あったのです)

 

 決め手は、夏のゴルフです。 暑いからおかしいと思われるでしょう。

 ところが、アメリカのゴルフは汗をかいたまま、シャワーも浴びず、

着替えもせずに、ビールを飲んで車で帰るのです。 問題は車の冷房です。

 汗を乾かすため上半身に直接当てるのでクーラー病になるのです。 

以上で筋肉痛にならないのがおかしい位です。

 

 日本で発症したら整形外科にとびこんだでしょう。 しかし、私はニュー

ヨークにいる間、歯医者にもいったことがなく、風邪をひいたらバッファ

リン、胃の調子が悪ければ、アルカセルツアーと、ドラッグストアーで

買った売薬で用が足りる健康優良児でした。 それに整形外科医という

のはアメリカではボーン(骨)ドクターと呼ばれており、骨折したときの

お医者さまと思っていたので、とりあえず言葉の通じる日本人のお医者

さんに行ったのです。 一人目は内科医だから仕方がないのですが、

痛み止めの内服薬をくれただけでした。 それは一時しのぎで、さらに

痛みがひどくなり、ほかの医者に行ったら、そこも内科医でしたが、

今度は首から血を抜いてみましょうと云われ、効くのかどうかわから

ないまま、とにかく痛いのでやってもらいました。 血を抜くと痺れで、

痛みは一時治まりました。

 

 不思議なことに、どなたも他の医者とか病院を紹介してくれません。

 一緒に働いていた年輩の米国人に相談したら、奥さんがテニスで

手首を痛めた時に、一発で治した凄いカイロプラクターがいるから

紹介すると連れて行ってくれました。

カイロプラクティックという言葉も初めて聞き、興味深々で説明を

聞きました。

 

 基本的には、背骨のスパイン(節)に<よじれ>とか<ずれ>

がおこり、脊髄から出ている神経線維を圧迫して痛みを起している。 

故障を起こしている場所をレントゲン写真で特定し、問題のスパインを

正常な位置に戻すのが治療だというのです。 具体的には、整体師の

ように腕をよじったり、空手チョップのように首を手刀で打つのです。

 問題のスパインは「ゴキツ」と音がするまで圧力をかけられたのです。

 

 赤ん坊のときは正常なのだが、成長するにつれ誰でもスパインに

異常が出てくると云っていました。

 

 腱鞘炎は収まったのですが、右腕を動かすと痛いのは取れず、この

療法士の腕にも信用が持てなくなり、通院を止めてしまいました。 

後で分かったのですが、この治療は鍼灸でも治らない後遺症を残して

しまったのです。 カイロプラクティックが悪いのではなく、

このカイロプラクターが未熟だったようです。

 

 当時ようやくニューヨークのテレビで日本語放送を流すチャンネル

が登場したのです。 そこに名前から中国人と思われる鍼灸師

コマーシャルが流れました。 早速アポを取って訪問しました。

 驚いたのは、予想と違いお若いこと、日本語が流暢なことです。

 奥さんも二人の小さな女の子も日本語でした。 その筈でした。

 彼は京都で日本流の鍼灸術を学んだのです。

 

 はり(鍼)を刺すときは痛いと思っていたら、全く痛くも痒(かゆ)

くもないのです。 ある程度の本数の鍼を立てると、その上に布をかけて

15分くらい置くのですが、その重みでも痛みは起きません。 頭のてっ

ぺんから足の小指の横まで、表と裏と身体の表面全体に順次鍼を立てては

抜き、立てては抜きを繰り返し、終わったら奥さんがオイルを塗って、

その上に火桶のようなものを掲げて、皮膚を暖めるのです。 お灸に近い

効果があるようでした。 これで一回の治療は終わりですが、これだけの

治療のわりには、費用は安かったと思います。(それも会社の保険で払い

戻しがあり、無料となりました) 多分先生も実績を上げようと頑張られた

のでしょう。

 

 鍼灸で使う鍼は注射針と同じく、ステンレスのチューブなのですが、

注射針より

細く裁縫の針よりも細いのです。 材質はニッケルの含有量が多いいようで、

柔らかくてよく撓う(しなう)のです。

 

 さて、治療は毎週土曜日で半年経ちました。 その間勿論ゴルフも

ボーリングもお休みです。 先生と「そろそろ半年ですが、まだですかねえ」

と話していたら、その2~3日後突然、腕が軽く上がり、痛みも完全に

消えていたのです。 奇跡だと思いました。 先生の話では再発はしないが、

恢復率は90%で完治ではないとのことでした。

然し、これで土曜日毎の通院は終わりました。

 

 余談になりますが、この先生はシカゴの大病院から頼まれると、

飛行機で飛んで行って、治療をしていました。 患者は遠くから来ていて、

先生も日帰りなので、午前と午後と二度連続で同じ患者を治療をした

そうです。 鍼灸は当時アメリカでも認知度が低く、そのシカゴの病院の

医師から、論文を提出すれば、ドクターにすると云われて、「胃潰瘍

鍼灸」というテーマで論文を書いているとのことでした。

 

 その後、こわごわ、ボーリングのボールを持ってみると、投げる

ことができません。ウェイトの軽いボールは指が入らず、試せません

でしたが、ボーリングは200アップも数回出したし、諦めることに

しました。

 

 ゴルフの方は身体を左に捩(よじ)ったときに、右肩が少し痛み

ましたが、何とかスイング出来ました。 然し、ドライバー、スプーン、

ロングアイアンは無理な感じです。 バッフィー(4番ウッド)、クリーク

(5番ウッド)、4番アイアン以下はスイング出来るので、やがてコースに

出ることができました。

 

 帰国して東京の港区麻布に住みます。 「四十肩」は再発しませんが、

腱鞘炎とか首筋、肩、背筋の痛みが出たので、近所の鍼灸師を探しました。

 2,3軒通いましたが、ニューヨークでお目にかかったような療法士は

見つかりません。

 

 転居するたびに、近所の鍼灸師を探してかかりましたが、なかなか納得

のいく療法士を見付けられません。 そんなとき、横浜の親戚から、

凄く良い先生がいるとの情報が入り、行ってみました。 そこは、皮膚に

立てた鍼の頭に、低周波の電流を流す電線をクリップで留めて、電流を流し、

強さを患者の返事を聞きながら調整していました。

これは良さそうでしたが、通うには遠くて1回だけでやめました。

 

 アメリカのデンバーという、ロッキー山脈の麓の町に駐在したときも、

鍼灸師を探したら韓国人の療法士がいました。 日本より太めで長い鍼を

使っていました。 治療はあっさりしたもので、ただ鍼を立てて15分

くらいおいておくだけ。 もっとも、これがスタンダードな治療とは

思いますが。

 

 帰国、伊豆の丹那盆地の近くの温泉別荘地でリハビリと称して、

毎日ゴルフと付き合っていました。 朝晩温泉に入り、ウオーキング

しているのに、なぜか、首筋、肩、背筋の痛みが出るのです。 

多分、ゴルフの練習のやり過ぎだったと思います。

探したら三島市にあったのでいってみると1回で治りました。

 リハビリの効果が出て来て軽い故障だったのでしょう。

 

 東京に戻って、立川市に落ち着きました。 また、鍼灸師捜しです。

 最初は立川駅の近くで、女性の療法士に巡り会いました。 

この先生との相性は抜群でした。 毎回1回の治療で痛みが取れ、

間隔も空いて行きました。 しかし、駅のそばで駐車代がかかり、

もっと近い昭島とか地元で探しているうちに、昭島駅のそばの先生が

勉強熱心な方で常に新しい療法を取り入れられ、そのお蔭で、ついに、

前回はいつ治療を受けたかのか思い出せないほどになりました。

 

 妻がパッチワークをやっているために、私と同じ症状で苦しんで

いましたが、この先生のお蔭で痛みを克服しています。

 

 自分の過去の体調を振り返ってみると、消化器系統が弱かったのが、

すっかり健康になっており、ニューヨークで鍼灸師の先生に巡り会った

お陰と感謝しています。

 

 保険もきくようになっており、もし、筋肉痛でお悩みの方で鍼灸

ご存知ないようでしたら、だまされたと思って、鍼灸の神秘をおためしあれ。 

 

  

  

ふるさと Part II

 先日、「ふるさと」というタイトルで「はてなブログ」に短文をのせました。 

 趣旨は、筆者には「ふるさと」という郷土が無く、それが悲しいというものでした。

 書いた時の心の底に流れていた気持ちは、地方から都会に出て来て、時に、故郷を思いだし、懐かしがっている人に対する羨望です。

 ところが、今朝、目が覚めたら、蜃気楼のように、幼少時に住み、遊んでいた、町の風景が、まざまざと脳裏に浮かんで、消えようとしないのです。 まるで「ふるさと」が無いと云われたのを恨んで出て来た亡霊のようです。

 そこで、改めて「ふるさと Part II」として、色も音も無い下手な風景画のようですが、精一杯描いて記録として残してあげたいと思います。

 時代は遥か70年以上昔のことです。 筆者が国民学校(今の小学校)にあがる前の頃です。

 チンチン電車と呼ばれた市電(路面電車)が走っており、バスはあったかどうか記憶に無いが、まだマイナーな乗り物だったでしょう。 後に市電は都電と名が変わり、更に、線路が無くなり、トロリーバスに変わります。 その後、全面的に都バスに取って代わられます。

 JR(旧国鉄)山手線の一番近い駅が浜松町駅田町駅で、徒歩で30分位の距離があり、筆者の自宅周辺は「陸の孤島」と呼ばれていました。

 住所ですが、当時は東京市麻布区、後に東京都港区麻布と変わります。 今は東京都港区東麻布となりました。

 「古川」という水路があり、橋が沢山ありました。 渋谷から天現寺橋、四の橋、三の橋、古川橋、二の橋、一の橋、中の橋、赤羽橋、芝園橋、金杉橋で芝浦港に注ぎます。 今は、その水路の頭上に首都高速道路が走っています。

 地形的には、この古川の流域が一番低く海抜は殆どゼロメートル。 左は三田台地、右が飯倉、六本木、と進み、左に回って材木町、と台地が取り囲みます。 だから、坂が多いのですが、筆者は永坂、鳥居坂暗闇坂、仙台坂くらいしか知らず、この機会にネットで調べたら、26もの坂の名前が載っていました。

 大黒坂、一本松坂、狸坂、暗闇坂、七面坂、植木坂、鼠坂、仙台坂、鳥居坂芋洗坂、狸穴坂、新富士見坂、永坂、なだれ坂、うどん坂、青木坂、木下坂、新坂、奴坂、薬園坂、綱坂、綱の手引坂、日向坂、神明坂、蛇坂、南部坂。

 大使館が多く、例外は米国大使館が赤阪、英国大使館が千代田区一番町、それ以外はほとんど麻布にあったと思います。 筆者の自宅はロシア大使館の崖下に近い所でした。

 近くには、まだ街路樹がありました。 幹の皮が緑色と白色だったから、プラタナスだったのでしょう。 良く木登りをして遊びました。 戦後の区画整理で道路が広くなったり、新しい道路が出来るとともに、街路樹は無くなりました。

 麻布の中心は何と言っても「麻布十番」です。 「稲荷神社」の酉の日の「おとりさま」の縁日には露店が並び、大変な賑わいで、子供も大人も楽しみました。 

 十番通りの丁度真ん中辺りから、二の橋方向に細い横丁が伸びて、突き当りには麻布山善福寺という有名なお寺があります。 この横丁の名前は「雑色(ぞうしき)通り」と言い、芸者のいる三業街があり、寄席もありました。

 一の橋と芝公園の橋の袂に映画館があり、親や友だちと良く観に行きました。

 浜松町駅に向かうと増上寺という徳川家の菩提寺があり、周りには芝公園、弁天池があり、芝公園には貝塚もありました。 この辺りも子供たちの絶好の遊び場でした。

 その後、東京名物の「東京タワー」が出来ましたが、交通が不便な地域なので、発展が進まない感じでしたが、「大江戸線」「南北線」の二本の地下鉄が通り、これからは徐々に再開発が進み、「グレーター麻布十番」になると思われます。 第二、第三の六本木ヒルズも出来るでしょう。

 大昔の麻布は間違いなく筆者の「ふるさと」であり、こんな素晴らしい町で育ったことは自慢してもよいのかも知れません。