NY貿易センタービルの追想

 2001年9月11日、米国東部同時多発テロ事件で崩壊したニューヨーク

世界貿易センタービル一号館、二号館。

ワールド・トレード・センター、ツイン・タワー、WTCなどと呼ばれた。

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死者は3千人と云われていたが、早くも16年以上の時が過ぎた。

イスラム系のテロのニュースを見聞きするたびに、大型旅客機が

一号館、二号館と相次いで突っ込んだテレビの映像が蘇る。

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 完成は1973年で設計は日系米国人ミノル・ヤマサキ氏。

最上階は110階で高さ411メーター。筆者が働いていた会社は

48階ワンフロアを全部使っていた。

 

 特徴は二棟とも63.4mx63.4mの正四角柱構造で、中心に

エレベーター、厨房、トイレを集中、そのまわりに柱を

集め、チューブ状の造りとし、まわりは柱の無い広い床面積を

確保した。

 

 風の影響が問題だが、全体の構造は鳥かごの外にもう一つ

大きな鳥かごを作ったようだと云われ、55階付近で揺れを

吸収し、そこから上の階ではまったく揺れが無かった。

筆者は48階だから、流しとかトイレにいると、ヒューヒューと

いう音と揺れが大きいので、いささか気持ちが悪かった。

 

 世界全体から見ても大きな財産と人命を失ったことを

忘れないのが、残された私たちに出来る唯一の事だと思う。

(写真はネットのWikipediaから)

 

 

 

 

小学生からの英語教育

 お隣の韓国より大分遅れて日本も小学生からの英語教育に

取り掛かっていますね。 何故、日本は遅れたのでしょうか。

アジア諸国における英語教育は日本より遥かに進んでいます。

それは、欧米諸国の植民地時代があったためで、日本としては

止むを得ないのです。 ですから、英語が第二外国語になっている

国はインド、フィリピン、香港、シンガポールであり、その他の

国は日本と似たような状況です。 

 

 日本の小学生からの英語教育は2008年位から始まり、2011年度に

小学5年から「必修」になりました。 2020年度には小学3年から

「必修」、小学5年から他の科目同様「教科」になります。

「必修」とは教科書は無く、担任の先生の裁量で授業を行い、

「教科」とは教科書があり、試験があり、成績表に成績が

載るということです。 この動きに合わせて中学校も受験科目に

英語を加えるようになるようです。

 

 さて、上記の様な小学校の英語教育に対し、思いつきでは

ありますが、愚見を述べてみます。

 

 日本は貿易立国の国であり、現地生産もあり、両親と共に

海外に行く子供がいます。現地の日本学校に通うのが普通です。 

然し、英米の場合、公立学校に入ることもあります。 

その場合、特別に専門の先生が毎日1時間程度特訓をしてくれます。

また、先輩格の日本人子弟がいれば、彼らが通訳をしてくれ、

とにかく、直ぐ英語で授業を受けられるようになります。

毎朝、英字新聞の1面から、記事を切り取り、教室でその

ニュースを発表するという授業をする先生もいて、とにかく、

英語をマスターするスピードは早いのです。

 

このような授業を日本でもやれたらいいですね。

ところが、海外で英語を身に付けると、日本語が弱くなり、

帰国後、海外子女受け入れ校の特別学級に入れたり、

インターナショナル・スクールに入れたりしています。

これは、勿体ないと思います。 子供は慣れるのが早い

のですから、普通の扱いをすべきです。 そして、彼等に

ほかの生徒の英語の学習の手助けをさせれば、一挙両得

です。 つまり、帰国子女に早く日本のレベルに追いつかせ

他の生徒には早く英語に慣れさせることが出来ると思います。

実は、我が家の息子たちの例では、上の子は日本学校に入れた

から、帰国して高校入試でしたが、無事合格しました。 

下の子は幼稚園児で米国の公立幼稚園に入園、初等科にあがったら

専門の先生がついて、上記のような特訓を受けて、現地に溶け

込み、帰国したときは、区立中学に編入、3年後、名門私立高校に

合格しました。 つまり、何も、特別扱いは必要無いのです。

 

 もう一つ、日本には海外からの留学生が相当います。 彼等も

日本の英語教育に役立つでしょう。 小学校の担任の先生の助手に

なって貰ったら良いと思います。 先生も一緒に勉強出来ますよ。

 

日本昔話のその後~浦島太郎

 亀を助けた浦島太郎は、その亀の背中に乗せられて竜宮城に

案内された。乙姫様にお目にかかり、亀の命を助けたことを

感謝される。ご馳走や魚たちの踊りに目を楽しませ、

極楽の暮らしをエンジョイしていたけれど、故郷が恋しく

なって、元の海岸に戻して貰う。乙姫様から貰った玉手箱は

浦島太郎に不老不死の魔法をプレゼントしたもの。

蓋を開けると白い煙が立ち昇り、浦島太郎は白髪の老人と

なった。

 

 さて、この後、浦島太郎はどうなったのか、ある説では

乙姫様が亀の姿になって、又、浦島太郎を迎えに来て、

今度は浦島太郎は竜宮城で乙姫様と結婚して幸せに暮らし、

めでたしめでたしというお話し。

 

 もう一つの説は、浦島太郎は一人で故郷に帰ったのでは

なく、乙姫様と5人の神様が一緒に来て、七福神になった、

というお話し。結局、浦島太郎は不老不死の仙人になった、

めでたしめでたしと云うお話しです。

念の為、ネットからイラストを借りて来ましたが、どの

神様が元浦島太郎でしょうか。

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恵比須天のように見えますが、みなさんはどう思いますか?

乙姫様は弁財天しかないでしょ。

 

 

 

日本昔話のその後~かぐや姫

 日本昔話、かぐや姫の物語、浦島太郎伝説、鶴の恩返し、

七夕祭り~牽牛・織女、などのお話しは、何か中途半端で

終わっていませんか?

 

 もし、誰も続きをご存じないのであれば、空想してみようと

思います。

 

 今回は「かぐや姫」をどうぞ。

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 月から迎えに来た馬車で月に向かったかぐや姫一行ですが、

途中、国際宇宙ステーションで休憩を取ります。 

ところが、そこには地球から派遣された、「光源氏」の末裔で

文武両道に秀でたイケメンが勤務していました。 彼の名は

平泉から姿を消した「源義経」と云います。 

当然、かぐや姫義経に一目惚れ、相思相愛の仲になり、

一年後、珠の様な男の子と女の子の双子が生まれます。

やがて、義経の任期6年が過ぎ、地球に帰ることになり、

勿論、かぐや姫と双子の子供達も一緒です。

 子供達はそれぞれ良縁に恵まれ、沢山の孫達も出来

幸せに暮らしましたとさ。

 

 「馬車はどうなったのか?」ですって、勿論、空っぽで

月に帰りましたよ。 何時か、また、誰かを迎えに地球に

来るかもしれません。

 

 

Only one in the world

 これは世界で一つしか無い手作りの装身具や装飾品を作って

販売している小づくりなお店に、外人さんがぶらりと入店して

きた光景を想定して書いた英会話のお話しです。

 

 多少は間違いがあっても気にしない、気にしない。

ご夫婦か、恋人同士か、友だち同士か、それも気にしない。

 

(外人客入店)客A ”Hi! Charming shop, isn't it?" <良いお店よね>

       客B ”Yes!  Really." <本当ね>

(店員) "Welcome to our shop!  All items are hand-made by us.

                     I hope you find items you like." <いらっしゃいませ。

      全て手作りですのよ。是非、気に入った品をお見つけに

      なって>

客A   "I like this necklace.  Would you give me any discount?"

           <私はこのネックレスが気に入ったわ。少しまけてくれない?>

(店員)"Sorry, no discount available but this is the only one necklace

             you can find in the world." <済みません。値引きは出来ません。

    これは世界で一つしか無いものですから。>

客A  "OK.  I buy this necklace as a memorial souvenior for myself."

   <分かったわ。 これは、私自身の記念品にするわ>

(店員)"Thank you very much.  This necklace suits you very much."

           <有難うございます。このネックレスは貴女にとてもお似合いです>

客B   "You are a very good sales girl.  I buy this pendant."

   <あなたは商売上手ね。 私はこのペンダントを買うわ>

(店員)"Thank you very much."

   <有難うございました>

客A&B ”Good-bye!”

   <さよなら!>

(店員)"Thank you very much.  Please enjoy Japan."

    <有難うございました。日本を楽しんでください>

鈴木香世子さん、太ましき猫さん、Karansaさん、ましのさん

今回はサンプルとして書いて見ました。 ヴァリエーションは

いくらでも作っていきますので、お好きなシナリオをご連絡

ください。

 

 

May I help you?(英語人生のつづき)

 私の卒業した大学は国立外国語専門大学で昔は東京外事専門学校と

いう名前だったらしい。入学試験も英語が300点(ヒヤリングを

含む)、国語100点(現代文、古文か選択)、社会100点

(日本史、世界史、地理から選択)、理科100点(生物、化学、

物理から選択)と英語の土台が出来ている学生という評価が貰えた。

 

 だから、国家試験無しで中学の英語教師にはなれたらしい。

然し、私は人にものを教えるには学力・人格が十分そなわって

いなければいけないと考えていたし、入学の目的は総合商社に

入るための手段であり、語学力を鍛えるためではなかったので、

教職免許は取らなかった。ただ、今になり、英語教師になったら

自分が世話になった青山学院出身のハンサムだった恩師のように

なり、可愛い教え子たちが沢山出来、全然違う人生があったなあ、

という感慨が胸をときめかせる。

 

 10年間の米国生活、度重なる欧州への出張などでの外国人

との接触から、数多くの人種の男女との会話はスムーズに

出来るようになったのは当然のことである。

 

 然し、商社を50才で勝手に辞め、米国にとんぼ帰りする

つもりが、当時のヴィザ発給はきびしく、「ふさわしくない

外国人」扱いになり予定が狂った。 41才で「四十肩」を

患い、鍼灸で治ってはいたが、米国に行けないのは、案外運命

なのだろうと割り切り、こんどは伊豆半島に100%自分好みの

住まいを作り、パソコンと電話で投資のかたわら、ゴルフ三昧の

生活に入った。それからは、65才からの年金生活にたどりつく

までの時間つぶしの生活だった。英語を活かしての仕事もあったが

「帯に短し、たすきに長し」であった。その中に英語を教えるとか

翻訳、ガイドという選択は全く無かった。

 

 最近、片や、2020年の東京オリンピックを見据え、また、

現実に外国人の訪日が増えて来たせいか、英会話を習得しようと

いう考えを持つ人が増えて来たような気がする。

 

 私のように英語の中で長年生活した人間からみると、私の大学

受験みたいに無駄な勉強をしないで、直ぐ使える英会話を教えて

あげたいという気持が湧いてくる。

 

 テキストを使った系統だった勉強ではなく、実際のシーンを

思い浮かべてその場で話されるだろう会話を頭の中に描く訓練を

するのがベストだと考えるのである。

 

 実は、大学に入って、実際の英会話を見て聞いて覚えるために、

3本立ての名画劇場で1日3回繰り返し観て、頭が痛くなった

こともあった。バイトで懐が暖かくなると、ロードショー映画に

入ってシナリオを買って、休憩中にそれを読んでから、中に戻って

映画を観るということもやった。

 

 私の父は仕事のために宣教師さんに英語を教わったと云っていた。

然し、良い先生に会うことは実際は難しい。 それは、大学時代

家庭教師をやって自分が知っている。

 

 そこで、私はこのブログでシーンを想定し、行われる会話の

シナリオを描いてみたい。発音が問題だが、ブロークンでも

ジャパングリッシュでも構わない。それが私流英会話術という

ものである。 では、See you again。

英語のおはなし

 今日は上天気ながら風強く散歩は取りやめ、我が英語人生を振り返ってみた。

「英語」については2月25日付で「英語って何語」という記事を載せたので、

その続編である。

 

             <中学時代>

 戦後直ぐ進駐軍という米軍の占領下という今から見れば変わった環境だった。

 1年生の時、漢文の先生がローマ字を教えてくれた。私がアルファベットを

覚えやすいように、画用紙に文字を図案化して書き、クレヨンで色をつけて、

教室に持って行ったら、大喜びされて、それ以降大変可愛がってくれた。

 3年生になり、担任が青山学院出身の紅顔の美青年の英語の先生になった。

米兵に囲まれた環境とこの英語の先生との出会いが私の人生を決めたのである。

彼は、どうやったかは知らないが、米軍将校の奥さん達を3人連れて来て、

多分、文部省の指導要綱には無かったのではと思うが、英会話の実習をやって

くれた。更に、私立女子高を目指す女子生徒に放課後の補習をやり、

男子も入っていいと云うので、私は一番後ろに座って授業を受けた。

私的には高校受験で進路を決めたのも先生だった。東京の第1学区が私の

属した学区だったが、トップは日比谷高校だった。この頃の高校入試は

全国共通のアチーブメント・テストという方法で、自校の自分の席で

答案を書いたので、精神的にはリラックスして受験できた。英語を

含まない8科目の合計800点に対し、720点以上取れたら、

日比谷高校に申し込んでもよいが、私の点数は690点位なので、

あっさり日比谷を避けて確実な二番手の九段高校に申し込み楽勝で

合格した。何故英語が試験科目に無かったのか、もし、あったら、

どうだったか、今はミステリーである。

 

               <高校時代>

入試で英語が入ってなかったので、入学早々、英語のテストがあった。

ところが、何とAクラスではなく、Bクラスになってしまった。

これにはショックで親に頼んで、JR千駄ヶ谷駅前にあった津田塾英語

スクールの高1教室に申し込んだ。然し、これまた、驚いたことに教室は

女子生徒ばかり。恥かしくて一番後ろの席に座った。馴染めないまま、

半年位過ぎてギブアップしてしまった。

 

           <大学受験~浪人時代>

第一志望が一ツ橋大で第二志望は東京外語大であった。数学とか物理・

化学が嫌いなのに一橋大にこだわり過ぎて、浪人期間が長引いてしまった。

東京外語大の試験科目は当時、英語が300点、国語、社会、理科、

各1科目に100点づつの合計600点という配点だった。

東大くずれとか一ツ橋くずれとか、さらに、浪人が多く受験するから

楽ではないが、数学が無いのだから、外語に的を絞ればもっと早く

受かったと後悔したが、若い時の苦労とか遠回りは長い眼で見れば損

とは言えない。暗い受験時代のなかでの唯一良い思い出は矢張り英語

がらみのことである。蛍雪時代の様な月刊の英語専門の受験雑誌があり、

巻末に通信添削問題のページがあり、毎月応募していた。外語に合格する

直前は全国二位が数回あった。その結果、入学後合格の秘訣を書いてくれと

頼まれ私の馬鹿馬鹿しい記事が掲載された。実は、良い思い出というのは、

このことではなく、常に一位を取っていた女性のことである。彼女は

佐賀県出身、結核で高校を卒業出来ず、大検(大学受験資格検定試験)

に合格して、外語の英米科に受かった。雑誌の写真で知っていたから、

入学後廊下で立ち話をしたのが、受験時代の唯一の良い思い出なのである。

 

              <東外大時代>

何としても合格したいので競争率が低いポルトガル語科を受験して、

うまうまと入り込んだが、外語を狙ったのは総合商社で海外勤務を

したいがためであり、ポルトガル語が商売で使えるのはブラジルだけ、

且つ、日本とブラジル間の商取引はあまり期待できない、という環境では

勉強には身が入らない。そこで、英語を勉強するために、英文学の講座を

出来るだけ沢山取った。英語関係では発音学、商業用語の講座も取った。

だから、英語関係で「優」の成績カードを10枚は取った。哲学とか経済学

とか、出席率が65%以上なら「優」で単位が貰えた。就職試験にはこれで

十分な準備が出来た。

 

        <米国生活から学んだ実用英会話>

 英語と一口で言っても様々な要素がある。 

 先ず、会話英語(Spoken English)と文書英語(Written English)。

 また、会話英語も話し手により違ってくる。分かり易いのは牧師さん

の英語(Father's English)。裁判での判事、検事、弁護士のやりとりも

明瞭で分かり易い(法律用語は別として)。テレビのアナウンサーの英語(Announcer's English)も当然だが分かり易い。大学の先生の英語

(Professor's English)も大抵は分かり易い。理由は第一にスラング

(slang)が混じらない。映画など長年見ていても半分しか分からない。

もっとも、半分分かればストーリーは分かる。西部劇、戦争もの、刑事

ものなどは判り難い。

 英語はほぼ世界共通語であり、中国人やインド人は方言が多く、同国人

同士でも英語を使うらしい。英語が出来ると何処に行っても通じる。

有難いのはお互い外国語だから易しい言葉しかつかえないから分かり易い。

英国人の英語はブリティッシュ・アクセント(British accent)とか

スノビッシュ(sunobbish)とか云う発音でやや聞きずらい。

オーストラリア人の英語も<エイ>が<アイ>となるので聞きずらい。

(マンデイがマンダイとなる)。インド人は舌が長いのか巻き舌である。

 問題は相手が日本人の英語に慣れてないと、意外に通じないのである。

航空機のCAでも国際線は良いが、米国内の国内線となると、「コーヒー」

が通じない。「コーク」つまり、コカコーラに聞こえるらしい。何度も

同じ目に遭い「カフェ・オレ」と言ってやったら一発で通じた。

アメリカ人が日本人の英語は小鳥のさえずりだと云っていた。

裏返すと、アクセントを強めに発音するか長めにすれば良いのである。

アメリカ人の発音を聞いているとアクセントのあるところばかりがつな

がって聞こえる。アクセントは大抵最初の母音にあるから、そこを強調

すれば通じやすくなる。それより、出来るだけ大きな声でゆっくり、

長く伸ばし目に叫べば問題ない筈。

 

 文書英語は使われている用語が問題である。学術書や取扱い説明書などは

専門用語(technical terms)が多いから厄介である。契約書も同様。

新聞・雑誌も記者が凝り性だと見かけない言葉を誇らしげに使ってくる。

小説も似たようなもの。昔は技術用語とか科学用語の辞書を持ったが、

いまは、電子辞書はあるし、ネットで検索すれば何でもわかるから

便利である。(完)